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☆会報『大けやき』Vol.1 (2001年9月1日発行)





大けやき伐採から、住民訴訟まで

けやき  ことし2月1日、新宿区百人町にあった樹齢300年という大けやきが都営住宅の建て替え工事にともない伐採されました。事の経緯を「大けやきの会」代表が報告します。
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 私たち原告名が東京地方裁判所に、石原慎太郎(都知事)、戸井昌蔵(都住宅局長)を被告とする「大けやき伐採損害賠償請求事件」の訴状を提出したのは5月2日のことでした。これに先立ち、2月8日に提出した住民監査請求の結果が4月5日に出されていたのですが、私たちの言い分は無視され、指摘した《東京都における自然と保護に関する条例(略称自然保護条例)》違反については「同条例は行政上の運営方針としての理念規定で、具体的な義務を課したり、規制するものではない」と、あまりにご都合よく判断しての棄却でした。私たちは気が収まらず、もう裁判に訴えるしかないという思いにかられたのです。しかし、経済的余裕もなく弁護士にお願いすることもできず、結局、無謀にも自分たちで「やるだけやってみよう」と、なじみのない法律の本を手に、日以内の提出期限にやっと書き上げた訴状でした。
 正直言って受理されるか不安がありましたから、提出後かなりの時間待たされた上で、「平成年(行ウ)第103号」という受付票を受け取ったときは、ほっとしました。
 ふりかえれば、住民運動は未経験、もちろん法律にも政治にもうとい私たちが、残されると聞いていたし、残されると信じていたあの大けやきが、何の説明もなしに一方的に伐られるのはいやだという想いだけで異議を唱えた行動でした。素直な気持ちで話し合っていけば活路はあると単純に思っていたし、伐採を一時停止し話し合いに応じてくれた都の態度に感謝こそすれ、とりあえず「住民の声を聞きました」というポーズだけでは、などと疑ってもみませんでした。移植を考えましょうという都の提案に、樹さえ残るのであれば喜んで同意をし、樹木医に樹の診断をお願いして最終的な判断をしましょうという話も、もっともなことと納得したのです。
 私たちには「樹を生かす人が樹木医」という思いがありましたから、診断当日の樹木医氏の「移植後枯れたらたいへんだ」とか、「モニュメントとして生かす方法もある」という話を聞いて違和感を覚えました。やがて、初めのうちは動かなかった団地役員が「建設促進」と大きな声をあげ始めました。
切り倒されたけやき  その後の都との話し合いには肝心の樹木医の正式診断書が出されず、私たちはさらに不信感をつのらせました。しかし、伐採に向かう力に、抵抗する論理も方法も私たちはもちあわせていませんでした。伐られることになってやっと行政のやり方が見えてきたのです。
 その後、朝日新聞がこの一件を記事にし、助っ人も現れました。都との間には「2月2日まで伐採を延期する」と言う念書も交わしました。そして日本に樹木医制度をつくった堀大才先生の「移植は可能であるし、すべきである」という報告もいただきました。にもかかわらず都は、2月1日の夜、あの大けやきを伐採するという愚挙に出たのです。こんなことが許されるわけはありません。私たちは住民監査請求から住民訴訟への道を進むことにしたのです。
 7月日、第一回口頭弁論が東京地方裁判所606号法廷でありました。これからどう進展するのか私たちには予想できません。ただ私たちなりに、自然と人間生活の関わり、行政と住民の関係などできるだけ考えていきたいと思っています。(春日武夫・「大けやきの会代表」)




大けやきの会活動予定
●大けやき住民訴訟裁判9月日(月)午後2時・東京地裁第606号法廷
●箱根散策旅行会9月日(土)〜日(祝)の2 泊3日。参加費は2泊分。14000円(宿泊費、朝夕食費、入湯税、宴会費)予定。定員名先着順締め切り。
●大けやき月例会月1日(月)午後6時分〜高田馬場消費者センターにて


大けやき回想エッセイ 大けやきと幸せのパラドクス
   植田麻実

 自分のことばかり考えて、自分が幸せになろうとすると、ともすればまわりが見えなくなり、幸せになりたい自分を満たすことができない。これは、年あまり生きてきて感じるパラドクスである。
 効率、効率と言って馬車馬のように走り続けてきたこの国は、いつまで、そのスピードをゆるめないつもりだろう。物質的な豊かさが満たされても、我々の心は空疎で、それは、決して我々を満たさないことは、とうに学んだはずなのに。いや、我々はそのことを本当に真剣には受け止めていないのだ。
 新宿は都会である。こんな都会の真中に、大けやきの木を最初に見つけた時は、その雄大さに息を呑んだ。まるで、小滝橋どおりの喧騒を黙殺するかのように、超然と、大けやきは立っていた。夕暮れに傍を通る時、シルエットに映える大けやきは、それはそれは美しかった。そして何より、巨大だった。こんな巨大な生き物が、こんな喧騒の只中にあることが奇跡のようだった。
 大けやきをめぐっては、この木を伐れという声が強くあがったが、その中には、本当はこの木が大好きで、この木に見守られながら半生を送ってきた人たちもたくさんいたように思う。何でこんなことになってしまったのか、未だに、とても不思議である。木を切れ、と言われたとき、私もひるんでしまった。団地ではお年よりが死んでいっている、一日でも早く建て替えたい、と言われた時、無気力がおそってきた。自分勝手で、場当たり的で、将来のヴィジョンに欠けていて、信念を貫く勇気がなく、その結果、自分で自分を裏切るのだ。これは、私自身に対しても言っている言葉である。我々は、どうして、こんなに身勝手になってしまったのだろうか。こんなに身勝手に振舞っていれば、それは、結局は自分にとって大切なものを失うことになり、自身を苦しめるのに。
 大けやきを救う署名をお願いしていた時、ある人が私に言った。「木を伐って何が悪いんですか? 僕は、『人間のためなら何をしたっていい』、と思っている」。この言葉は、人間と自然とが、共通点を持たない別々のものとして認識されているこの国の意識そのものに思える。彼の言葉を大けやきの会のメンバーに告げると、その人は静かに答えた。「でも、木を伐るという事が、本当に人間のためになるんだろうか」と。
 我々のまわりには、省みられず破壊されていく自然と、様々な機関のこしらえた「自然を大切に」という形だけのメッセージがみごとに共存している。あまりに頻繁にこのメッセージを目にするので、我々の心は呼応せず、これらの標語はそのメッセージを伝えきれずに、ただ流され続けているのだ。
 一連の大けやきをめぐる日々の中、私の心に何度も浮かんでは消えた言葉がある。
 その人は、やわらかな河原を淡々と壊していくブルドーザーに向かって叫んでいた。

「こんなに日本を憎んでいるのは誰なんだ」と。

近衛のけやき

【巨樹のある風景】第一回
近衛のけやき[新宿区下落合三丁目]
 写真・吉田忠 資料提供・根本二郎

 下落合の閑静な住宅地の中に立つこの大けやきは推定樹齢100年以上。界隈にはかつて華族の近衛家、九条家の邸があった。戦前の宰相近衛文麿は政治活動を始めた頃、外出時、かならず馬車でこの木の周りを回ってから出かけたとか。戦後も「近衛のけやき」として、近隣の人々に親しまれ、保存運動のかいあって区道整備語も生き残り、いまも道路の真ん中にそびえ立っている。


人と木の物語に出会うこの一冊
『木に挨拶する』(1992年)    内藤隆一郎著 筑摩書房
 《私本・聴耳頭巾》と副題がついておりますように、自然について見聞きしたことや、体験したことを書き連ねたエッセイ集です。特にけやき好きにたまらないのは、武蔵野のけやき二話と、調布市がビル建設のため一五〇本もの木々を伐り倒すことなく移植した話です。人々は身近な自然に生かされているのだと……やさしい気持ちにさせられます。


東京いきもの図鑑 第一回 ケムシ!
文・イラスト 横関拓也

 ケムシというのは毛の生えた幼虫。すなわち蛾の子どもです。ケムシはその容貌から、ゴキブリやネズミのように嫌われてしまいます。そんな日陰の存在ケムシにスポットを当てて何回かプロモーション活動してみましょう。キモチワルイって? ケムシだって生きているんだ友達なんだ〜よ!
 少年の例にもれず私も虫ずきでした。けれどもクワガタやトンボのようかカッコイイ虫だけでなく、ケムシやダンゴムシのようなマイナーな虫もすきだったのです。
 私はそのころ、東京郊外の武蔵村山という場所にいました。狭山丘陵を背にし、まだまだきれいな自然があるところ。家の前には梅園とサトイモ畑と、まるで雑木林みたいな農地がありました。梅と雑木林の方は手入れもされていないで荒れ放題。夏になると毎年いろんな毛虫が大量発生しました。私にとって最も身近な昆虫がケムシだったのです。
 次回からはケムシちゃんを順番に紹介していきますのでよろしく!




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