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☆会報「大けやき」Vol.5  (2001/03/07発行)



年内判決は困難? 長期戦へ    報告第5回口頭弁論

 「大けやき」が伐採されて一年が過ぎました。
 現場では、新しい住宅がほぼその形を現しつつあります。切り刻まれた大けやきは、工事現場事務所横のブルーシートの下に隠され、その姿を見ることはできません。住宅完成の暁には、語り部としてベンチやモニュメントになるのでしょうか。提案した樹木医氏や都は、それらが誰に向かってなにを語ると考えているのでしょう。
 この一年、私もよい経験をさせてもらいました。見にくかった世の仕組みを垣間見ることができ、大事にすべきものを意識できたからです。半面、持続することの難しさも感じています。ともあれ、一人一人が貧困なる知恵と力しか持たなくとも、ぼちぼちやっていく存在のしかたもありでしょう。私たちが声を上げ続けたことによって明らかになったものも少なくないようで、新宿区みどり公園課では緑化計画書の取扱い手続きを手直しした具体的例も出ています。
 1月29日、第5回口頭弁論がありました。年頭に、今年中に判決が出るだろうと気楽に考えていましたが、なんの、裁判長が求めていた伐採費用は、今年11月の工事終了まで出せないとの被告側の発言で、来年にずれ込む長期戦となるのは必至のようです。 
 さて今回、裁判長より原告に課せられたのは、訴訟参加の都知事代理人の準備書面で「緑化計画書を提出し受理されたのだから手続き上なんの問題がない」との主張に対し、新宿区の保護の実状を踏まえた上でどう考えるか、でありました。私たちはそれだけでなく、原告の提起した問題に被告側からまともに答えがないので、以下のように整理し準備書面`としてまとめました。
1)B棟という言葉が出てきたのは、平成11年の基本設計以後のことにもかかわらず、平成2年の“都市居住更新事業整備計画”が承認された当初から、A棟B棟という建物配置が決定していて、他に代替案がないような主張は、基本的な誤りを犯していることになる。
2)大けやきの診断は、工事着工後の樹木医有田診断しかないはずなのに、誰によるかを明示せず計画時にあったかのような主張をし、だから伐採を前提とした設計もやむを得ないとしたのはごまかしである。有田報告書も、診断書として不備で、結論は科学的にも疑問が多い。
3)『自然保護条例』『みどりの条例』は“保護”と“回復”と両面がある。被告は緑化という回復は語っても、保護というもう一面をどう考慮したかの説明は全くない。新宿区は公有地の樹木を保護の対象から除外していないとしながら、でもやらないと理解しにくいことをいう。
4)広域避難場所だからという理由もあげているが、それなら事業計画全体に関わってくることなのに、当初の計画をなぜバラバラにしたのか。当初は繰り返し「延焼防止機能」として既存植生を有効利用するよう提案があったのだ。
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 緑化計画書は、緑被率が規定の数字を満たしていればよしとしているもので、質や量だけでなく、既存樹木がどれだけあるかも問題にされないので保護の観点などないも同然です。たとえば戸山団地は区内でも貴重な樹林地帯ですが、建替えが終えた地区は既存樹のほとんどが伐られ、もう樹林などと呼べる姿はありません。人々が住み続けてきた歴史は根こそぎにされ、コミュニティも希薄になっているのが実状です。 


【大けやき回想エッセイ】 
『古代人の生活に想いを馳せて』  春日美海 

 百人町4丁目の大けやきは樹齢200年とも300年とも言われていた。江戸時代から現代まで、土地の人々の暮らしをずっと見守っててきたことだろう。だが、大けやきの根元には、はるか昔の人々の物語が眠っていたのである。
 かつて戸山団地では建て替え工事に伴う発掘調査が行われたことがある。地中から姿を現したのは古代の人々の住居跡で「百人町三丁目西遺跡」と名付けられた。調査の結果、大けやきのあった地区では、旧石器時代から平安時代にかけて、じつに1万年以上にもわたって断続的に人々の生活が営まれてきたことが明らかになった。
 特に縄文時代後期初頭(約4000年前)のものとしては、竪穴住居跡が12軒、人骨の検出された墓が2基、土器片に至っては2万点以上が見つかっている。
 また弥生時代後期のものも、44戸の住居跡がみつかった。つまり有史以前にはこの一帯に村が存在していたことになる。
 遺跡の状況から想像される縄文時代後期の村の生活はどんな様子だっただろうか。縄文人の一家は、床に石が敷き詰められた竪穴住居で暮らしていたことだろう。そして、炉には火鉢あるいは竈のような役割を果たす大型の土器が埋められ、そこで日々の食事が作られていたのだろう。また、遠く海からは貝が運ばれ、人々はそれを調理して食べ、斜面に貝殻や骨を捨てた…それが「貝塚」として今に残っているものである。その貝は、おそらく百人町の村人が実際に海に捕りにいったものではなく、海のそばに住む村とこの村の特産物とが交換されて得られたものだろう。
 このようにして、縄文人たちはこの村で生まれ、亡くなっていったのだろう。その遺体は村の中の墓に手厚く埋葬された。この土地では、何世代にもわたり、そんな暮らしが営まれていたのである。
 あの大けやきは、そんな歴史の上に根を張っていたのだった。その跡から、何千年か前の百人町に思いを馳せてみてはどうだろう。


【人と木の物語に出会う】
『木』 幸田文著 新潮社(1992年)

 父幸田露伴と草木の関わりを追憶しながら、ありふれた日常を細やかな観察と発見で綴っています。
 出会った木々とそれにまつわる人々の姿に素直に感動し、それを生き生き描写できるのは、作者が子どものように好奇心旺盛で感性が豊かだからでしょうか。


【巨樹のある風景】
都立戸山公園内のけやき (新宿区戸山三丁目)

 箱根山地区せせらぎ広場の中程にあり、幹回りは3m強。寛文11年(1671年)尾張徳川光友が将軍家綱から箱根山を拝領し、ここに大規模な池泉回遊式の戸山荘庭園を造園しました。けやきの根元の方にはうろがありますが、それにもめげず、空に向かって大きく伸びています。近くにアスレチック広場、運動広場などあって、子どもたちが歓声を上げて元気に走る姿を見下ろしています。


【東京いきもの図鑑】
第5回  オニグモ   文・イラスト 横関拓也

 ケムシねたもそろそろ尽きてきたので次はまたもや嫌われものクモの話をしましょう。
 クモって噛むわけでも、作物を荒らすわけでもないのになんで嫌われちゃうんでしょうね。見た目がグロテスク?私はかっこいいと思うけど。
 今回はオニグモ。オニという名前がついているのは背中の模様がオニの顔みたいなだからで、別に危なくありません。大型で体長は3センチぐらい。地味な茶色の保護色で昼間は木のくぼみなどに潜んでいるのでなかなか見つかりませんが、夕方になるといわゆるクモの巣をはりはじめます。そして一晩はったこの巣は朝になるとたたんでしまうのです。オニみたいな顔しているけど律儀でしょ。
 私の実家の庭にも何匹かいて夕方になるとこのオニちゃんが巣をつくり
はじめました。夏になると毎年毎日同じ場所に巣をはります。というわけで妙に愛着がありました。我が家の守り神みたいに思っていましたっけ。




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