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新宿区百人町4丁目の大けやき伐採をめぐる問題



 江戸時代末期から、私たちを見守り、新宿区の市街地では一番大きなこの大けやきの雄姿を、我々の文化財として残すすべを模索しています。

大けやき伐採の即時中止を求める有志
発起人代表:植田麻実
keyaki2001@geocities.co.jp


※資料部分は追って掲載します。


概略

 樹齢200年以上の大けやきが、都営住宅再建によって伐採の危機に直面しています。昨年11月15日に行われた、都による住民への説明会では、この大けやきの伐採はしない、とのことだったのですが、実は、当初から計画上では、大けやきは伐採されることが決まっていました。  
 住民へは、切らないと説明し、その一方で、昨年末のうちに、伐採がおこなわれる予定となっていました。
 伐採が予定されていた、わずか数日前に、工事現場責任者に大けやきの伐採はないのですね、と私がたまたま確認したことから、この大けやきをめぐる問題が表面化しました。



1.問題の発端―昭和24年建設の都営住宅の老朽化にともなう建て替え

 昭和24年建設の都営住宅が、ここ、新宿区百人町3、4丁目には広がっています。その都営住宅の老朽化と新宿新都心開発にかかわる、市街地再開発にともなって、10年ほど前より、敷地内の都営住宅の取り壊し、再建が徐々におこなわれてきました。
 今回大けやきのある、百人町4丁目敷地内は、平成6年5月より、建て替え計画がスタートしました。(鈴木都知事当時)  過去3回ほど、住民説明会が開かれ、その都度、時々の都の財政等による事情で、計画は変更されました。そして、最終的な説明会となったのが、昨年11月15日のものです。その時の議事録によれば、

 住民の参加者が、「大きいケヤキの木を切るのですか」と質問し、

 都側は、「図面にて残す樹木を説明」とあります。(資料1参照)

  このやりとりは、質問をした本人が、12月21日の住民と都側の話し合いに出席して、この大けやきは切らないと都側が前回の説明会でいったと証言しています(資料2参照)。


2.大けやきの文化的・歴史的意義

ア)現在の大けやきの所在地。(資料3参照)

イ)大けやきの所在地、(旧)戸山ヶ原について。

 ・江戸末期には、大けやきがある百人町一帯は、中村家の田畑だった。(新宿区歴史博物館所蔵、中村家の古文書より)。
 ・明治9−11年にかけて、中村家より、陸軍戸山学校が購入。(新宿区歴史博物館所蔵、中村家の古文書より)。
 (この陸軍が錬兵所として中村家より購入したここ一帯は、戸山ヶ原と呼ばれていた。)

 この、戸山ヶ原の当時の情景に関しては、陸軍戸山学校略史(鵜沢尚信著。昭和44年。新宿区歴史博物館所蔵)に「戸山という緑のふかい土地」との記述あり。また、わがまち大久保―内藤新宿300年記念・大久保地域センター開館5周年記念誌にも「戸山ヶ原から戸山団地」p.14に、軍の土地でありながら、地域住民にとってもいこいの場所であったことがうかがえる。(資料4参照)

・ 昭和20年4月13日:東京大空襲で新宿付近にも焼夷弾が落ちる。大けやきは空襲の中、生き延びる。
(当時から住む住民の証言による。)

・ 昭和24年:都営住宅建設。戦後団地の第一号となる。(戦後政府は野球場にする計画をたてたが、占領軍から集団住宅地として適当と指示され、団地が建設される。)(資料4参照)

   この、都営住宅建設は、大けやきを棟と棟で囲むようにして建てられた。

(資料5参照)

ウ)大けやきの大きさ

こうした戦後のめまぐるしい変化の中、地域の子供たちに、「けやき城」と呼ばれ、親しまれ、生き続けてきた。こうして、今では、新宿区で、市街地に立つものでは一番大きい木となった。(新宿区全体では3番目に大きいが、1、2番目に大きいけやきは新宿御苑内)

エ)大けやきの教育的価値

この大けやきの幹の内側部分が現在は表面にでているところがある。このやわらかい部分は取り出して調べることが可能である。木を傷めずに、年輪が語るのと同じように、この大けやきのたどった歴史がわかる。200年あまりにわたる、この地域の歴史を語る生きた資料として、子供たちへの教育的価値を多分に持つ。

オ)樹齢

200年強。樹木医、有田氏による診断。江戸時代末期という木のいわれが証明される。

カ)けやきの木は、新宿区の木となっている。また、地元の中学校の校章にも使われている。   


3.大けやきを残す運動の経緯

ア) 前記のように、昨年12月16日午後に現場工事責任者に、大けやきは伐採されると聞き、当日、石原都知事あてと、都の担当である東部住宅建設事務所あて、そして、マスコミに、伐採中止を求める手紙を送る。(マスコミには、都知事あての手紙等をファックス)

(資料6参照)(資料6は、石原氏に送付したものに、発起人の連絡先などを加え、要望書として12月21日の都との会合に準備したもの。)

イ)12月17日午後、近隣住民へ、伐採中止の協力を依頼するビラをまく。

ウ)12月18日、ビラが手に渡った区議、都議のはたらきかけで、2〜3日後に予定されていた伐採を一時ストップする。同時に21日に住民と都側との話し合いが持たれることになる。(資料7参照)

エ)12月21日、都と住民との話し合い。都側は、11月15日に住民側へ、大けやきは切らないといったことを認め、住民側の要求である、大けやきを今の場所に残し、建設計画を変更する案と、都側の、当初の大けやき伐採との妥協案として、「大けやきの移植」を提案する。その上で、大けやきが移植に耐える体力を持っているかどうか、後日、樹木医に診断してもらうことが決まる。(資料2参照)

オ)本日、平成13年1月6日、都側の樹木医により、住民の参加の中、大けやきの診断がおこなわれる。診断書は都より住民側にも公開される予定。診断の概要は、多岐にわたったが、結論としては、移植するのには、充分元気である、ということだった。(ただ、移植には本来ならば、根回しと呼ばれる準備期間を何年かかけてすればもっとよいこと、移植にともない4分の3ほど枝も落とさなくてはならず、樹勢にとっては危険も伴うことなどが説明された。)住民側としてボランティアの樹木医が一緒にたちあった。

カ)ただ、今回は、参加者住民に、都営住宅が一刻も早くたつことをのぞんでいる人がいて、移植によって工事が遅れることへの危惧や、日照権問題などから、切ったほうがいいという声があがった。移植が可能か否か、という問題よりも、住民側の意思が二つにわれてしまった。(平成13年1月6日現在)



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